那智の浜から生きたまま船に乗せ、僅かな食糧を積み、外へ出られないように釘付けをして沖に流し、観音の浄土すなわち補陀洛山に往生しようとする宗教儀礼が有名な補陀洛渡海で、この地から多くの渡海者が船出しました。熊野年代記によるとこの補陀洛渡海は貞観十年 (八六八)の慶龍上人にはじまり、平安時代に三回 室町時代に十回 江戸時代に六回が記録されているだけでも出船しています。
渡海僧出発の様子は「那智参詣曼陀羅」に画かれているが渡海は十一月、北風の吹く日を選んで夕刻に行なわれました。当日渡海者は補陀洛山寺御本尊前で秘密の修法をし、続いて三所権現を拝しました。見送りの人々のどよめきの中を一ノ鳥居をくぐって浜に出て、白帆をあげ、屋形の周囲に四門及び忌垣をめぐらした渡海船に乗り伴船にひかれて沖の綱切島まで行き、ここで白綱を切って観音浄土をめざし、南海の彼方へ船出して行きました。
二灯をともし、日夜、法華経を誦し、三十日分の油と食糧をたずさえて生きながら極楽浄土に旅立つ決死の行であ離ましたが、近世になると金光坊が渡海を拒んで島に上が人ましたが無理矢理に入水させられたという伝説もあり、生きながら渡海をするという習慣はなくなり、当寺の住職が死亡した場合、かつての補陀洛渡海の方法で水葬をするという儀式に変って行きました。
現在当寺の裏山には渡海上人の墓があります。
墓碑には「補陀洛渡海宥照上人」のほか、祐信、祐尊、光林、善光らのものがありいずれも「勅賜補陀洛渡海○○上人」と記されています。
また享録四年(一五三)十一月に渡海した祐信(足駄上人)の渡海木札、渡海上人位牌、 渡海船に使用されたと伝えられる部材が現存しています。